カテゴリ:rodolfoの家族の話( 4 )

母が死んだ話その4。

ちなみに、母親の残した遺言によれば、すべては父親と兄に行き、自分の取り分
はゼロだったが、もしも、父親が先に亡くなって、母親が残った場合は、母親の
預金の7割を自分に残す、というものだった。生前、父親の事業を廃業して、事
業所を売却したときに出来た金を自分にやるという話が持ち上がったことがあっ
たが、生前贈与に当たることでもあり、特に金銭を必要としていなかったことも
あり、断った。おそらくその額がその7割に相当するのだろう。遺留分の金額に
ついて調査した結果、相続放棄した。その最中に兄からメールが届いた。

四十九日のお知らせであるが、いつどこでする、とは書いてなかった。まあ来る
な、という事なんだろう。こっちも行く気は全くなかったが。
その上、父母の契約した墓地の場所を知らせて寄越して、鍵を預かれとか、盆に
もしも自分が行けない場合はお前が行けとか、勝手なことをほざいて来た。
自分と連れは、はじめから墓に入る積もりが無い。どちらも散骨処分で結構で、
希望としてはワイキキビーチに撒いてくれればありがたいといったところだ。

ここで絶縁を宣言する気でいたのだが、連れに父親の遺産相続が終わるまで待
て、とさとされて思い止まった。父ももう90歳。兄のあの様子ではろくろく世
話も届いているまい。
その日はそう遠くないと思うので、当分は兄の裁判の行く先を生ぬるく見守る
予定でいる。

ちなみに今日に至るまで、兄からの介護参加への要求は全く無い、入院する度
に、見舞いに行ってやれ、と言って寄越すだけだ。なにせ母の退院が判明した
当日、兄に電話すると、二人を家にほったらかして現在ご自分はゴルフの真っ
最中だとか。まあ彼にとって介護とはその程度の位置付けなんだろうなと思っ
た。芦屋の山手町の一軒家に住み、巨大なベンツを乗り回すあの兄はいったい
誰に何を自慢したいのだとうと常々不審に思っているが、私の口を出すべき問
題ではない。さして有名な病院に勤めていたわけでもない兄が、突然65歳とい
う年で開業医になってどう今後仕事をするのか、という点についても私の知る
ところではない。

以上、正月早々暗い話で申し訳なかったが、この話を公開するかどうか一年間
迷った。まあ丁度良い折が来たと思ったので、正月早々のお目汚しで申し訳な
いがご容赦ありたい。

かる火の粉は払う所存であるが、なんとか楽しく長生きしてみたい。
現在去年のリベンジを果たす為、ハワイ滞在中である。様子は追ってお届けし
たい。では皆様良いお年をお迎えください。血栓症には気をつけてね。足が腫
れるのは怖いですよ。




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by rodolfo1 | 2017-01-01 02:07 | rodolfoの家族の話 | Comments(0)

母親が死んだ話その3

さて、母親の死後、しばらくして兄からメールが来た。
きっちりやらかしてくれた。
なんでも訴訟騒ぎになっている、と言うのだ。
65歳で病院をやめた兄は、開業しようとしたのだった。開業コンサルに
申し込み、西宮の医院を買ってそこで開業しようとしたのだが、これが医療
法人だった。それを解散してそこの場所と装備を借りようとしたのだが、
医療法人を解散するのはなまなかなことではできない。とにかく昨年7月
に開業したかった兄は、その法人を買収して自分が理事長、父母を理事に
して、開業したのだが、その際の代金の支払いを巡って、相手に2000万円
の訴訟を起こされていた。お前にも相続が起これば支払い義務が発生して
しまうので、相続を放棄しろ、というメールをよこしたのだ。
そんな大事なことをたった2通のメールで言って寄越す相手の真意が全く
読めなかった。まだ相続をするともしないとも言っていないのだが、
初公判が2月9日にあるので、それまでに答弁書だかを出さねばならない
のだが、これに自分の名前が載る必要がある、というわけだ。困って
、以前離婚の時に世話になった弁護士を頼った。彼はちゃっちゃと仕事を
し、裁判所に申し立てれば、相続放棄の限界3か月までは、自分の名前を
答弁書に乗せる必要はない、と言ってくれた。その手続きが終わって
やれやれ、という所だ。ちなみに、その2000万の内訳は、父が1800万、
兄と母が100万ずつ、という兄にとってどこまでも勝手なものだった。
なんだ100万の話か、と安心したが、弁護士によれば、相手は取りやすい
ところから取るので、最悪2000万円の請求がうちに来るという話だった。
ちなみに遺言書が公開され、母は全てをを兄と父に残して、自分には一銭
も残さなかった。これから兄弟仲良く、という一言で遺言書を終わらせて
いた。兄弟仲良く。良く言えたもんだと思ったが、それがあの母親というもの
だと思った。しみじみと母親にはまったく愛されていなかった事を痛感した事件
だった。遺留分の額はいくらかを調べるべく、母親の銀行に預金額
の問い合わせを弁護士を通じて行った。続く。





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by rodolfo1 | 2016-12-31 02:37 | rodolfoの家族の話 | Comments(0)

母親が死んだ話その2。

さて、自分は大学を卒業したとたんに結婚した。子供もすぐに二人できた。
はじめのうち、連れは毎週子供を連れてうちの実家に帰省していた。
連れにもいろいろ思惑があったのだろうが、別に自分の意見は無く、
主に連れの意見で実家に毎週通っていた。ところが専業主婦であった
連れは、時々自分の母親に育児を手伝わせていたのだが、うちの実家にも
手伝いを要求した。芦屋から尼崎に現れた母親たちは、さんざん文句を
言いながらマンションの階段を上がって来、それが部屋に居た連れに
丸聞こえだった。それから母親達とは疎遠になった。
それやこれやで連れとは離婚になった。その顛末はまあ気が向いたら
また書くとして、離婚後すぐに再婚した自分は、新しい連れを連れて、
実家を訪問することにした。実家との仲を再構築しようとしたのだ。
月に一回ほど食事会をしていたのだが、初めのうちは自分の奢り、という
形で納得していたのだが、その後兄とゴルフや旅行を一緒にするように
なってから、だんだん兄の言動が鼻についてきた。とにかく徹頭徹尾
自分のことしか話さないのだ。しかも絶対に金を払わない。初めの
うちはこっちが誘っているのだからと黙って払っていたのだが、
だんだん我慢ができなくなった。兄とコミュニケーションを取るのは
不可能だと思った。食事会に兄を連れて来ないようにいくら言っても
ついてくる。しかも絶対に金を払わない。母親は兄がいないところでは
兄の愚痴ばかりだ。曰く、車の代金を母親に払わせるとか、自宅を建て
直して、兄が支払う、というので名義を兄に変更することに承諾した
ところ、少し現金を持ってきただけであとは母親に払わせたとか。
一時が万事その調子だ。兄の顔を見るとむかつくので、そこからは基本
再び疎遠にして、親には父の日と母の日のお花と、新しい連れがイクラ
を漬けた時だけ一パック送るだけの付き合いにした。そうやって何年も
過ごしていたのだった。

ところで、退院した母親を二度ほど自宅で見舞い、特にかわりばえも
しなかったので、正月はハワイに出掛けた。そうしたら、突然1月2日に
兄からメールが来て、一日に母親が亡くなった、と知らせてきたのだった。
あわてて帰国して通夜には間に合わなかったので、葬式には出掛けた。
弔問客は我々を入れてたった6人。しかも一人は通いのヘルパーだった。
いつものように仕事に来たところ、葬式をやっていたのだ、という。
来てみれば、兄貴は紺のスーツにまあ一応ネクタイは黒。靴下も紺。
父親は普通のブレザーに普通のネクタイという、ものすごく奇妙な
いでたちだった。そんな葬式の割にはものすごく豪華で、部屋中が
花で覆われていた。なんでも300万払ったそうだ。無駄な事をする
ものだと思った。式が終わり、坊主が最後のお経を上げに来ていたの
だが、兄は二階へ行ったきりさっぱり降りて来ない。やっと降りて
来たと思ったら、なんとジャージに着替えていた。この人はやっぱり
こういう人間なんだと思った。葬祭屋さんたちは、弟さんたちは
わざわざハワイから駆けつけたらしい、と小声で話していたが、ついぞ
兄からねぎらいの言葉もなく、まあ香典返しはしてきたものの、割り
切れない思いは忸怩として残ったのだった。







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by rodolfo1 | 2016-12-30 02:34 | rodolfoの家族の話 | Comments(0)

母親が死んだ話その1

今年の1月1日に母親が亡くなった。昨年の10月に腸閉塞で入院したのが
始まりだった。鼻にイレウス管を入れられてそこから便を袋に流して
いるのを見た時はさすがに気の毒に思った。母親はかなり錯乱していて
こちらのことがわかるかわからないかといった状態だった。
原因は大腸がんだとわかり手術した。その二週間後に見舞いに行った
ときにはこっちに一言もなく退院していて、近くの実家に見舞いに行ったが、
どことなく不自然なものを感じたものの、まあ普通に暮らしていた。

この母親は自分にとっては多少の毒親の部類だった。長男だけを可愛がった
のだ。自分はほったらかしに近かった。自分が小さいころから母親は
父親の事業所に働きに出ていた。後に理解したのだが、けっこううまく
行っていたその事業所に母親が働きに行く理由は特に無かった。
当時は専業主婦があたりまえで、同じ業種の人たちの中で働いていたのは
うちの母親くらいのものだったらしい。
4時に夕食を済ませると母親は夜も仕事に行った。自分は6歳上の兄と
二人で親の帰りを待っていた。嫌だとは思ったが、当時は仕方の無い事と
あきらめていた。アメリカだったら両親は逮捕されている状況だ。

母親はとにかく兄を可愛がった。公立中学から神戸高校へ通い、成績も
まあまあでやることもまだまともだった。彼がおかしくなったのは大学受験
に失敗してからだ。母親のそれからずっと言っていた愚痴によると、大学紛争
があって、東大受験をするはずの人たちが京大に流れて来たから兄は落第
した、というのだ。その頃も今も、神戸高校から京大医学部へ行く、という
のはよほどの秀才でも難しい。当時は偏差値も無く、今のような予備校も
無かったので、通信教育の情報だけで行ける、と判断したようだ。その後の
体たらくを見れば、到底不可能だったのは明らかだ。
何故か兄は、少し遠い予備校へ通うのに、一人暮らしを選択した。
それが良くなかった。心を病んでしまったのだ。予備校に行かなくなり、
ひきこもっておかしなことをつぶやいていた。自分に手を挙げたことも
あったくらいだ。当時中学生だった自分は大変恐ろしかった。
精神科で薬をもらい、なんとか良くなってなんとか予備校へ通い、2~3年
浪人した後に私立の医学部に、二次募集という形でいわゆる裏口入学を
した。母親は、それはそれは喜んだ。兄は一留して、国家試験を一度しくじって
やっと医者になった。それから大学院に進んだが、何故かほとんどの私立大学
生が取れるはずの学位をとれなかった。あまり有名な病院では務まらず、
神戸大学医学部の客員になってやっと学位を取った(と本人は言っている。
真偽のほどは不明だ。)。かなりの回り道をした挙句に医療生協系の病院
の老健部門だかに10年つとめていた。結局結婚もせず子供も作らなかった。
ずっと親と同居していた。続く。





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by rodolfo1 | 2016-12-29 02:36 | rodolfoの家族の話 | Comments(0)